引き継ぐということ
仕事を引き継ぐというのは、どこか寂しい部分があるというのが本音でもある。最後まで携われなくなり、行く末を見届けられないこと。関わっていたチームメンバーとの関わり度合いも少なくなる。
今日、その引き継いだプロジェクトの進捗報告があり、そのメンバーに自分の顔写真があった。
許可なく写真を載せるのでモザイクあり(笑)
引き継いだ後の方が数倍大変だったし、密度も濃い中、片隅に存在できていることが素直に嬉しかった。
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仕事というのは、「これが自分がやったものだ」という生きた証みたいなのが欲しいという感情が自分の中にはある。功績とまではいかないが、仕事をする上でいつも「何かしらの爪痕を残したい」とは思っている。
それは、プロジェクトなどの単位だけでなく、会社に在籍している間でも同様で「あれは自分が携わったものだ」という感覚を持ちたい。他者から認められる承認欲求とは違い、どちらかというと自分の存在価値を自身で体感したいのだ。(あれ、これも自己の承認欲求ってことになるんだろうか?)
その自己肯定感を埋めるためにも仕事を途中で引き継ぐというのは、心情的には、やはり寂しいものだ。
それでも、今まで数十年働いてきて「引き継ぎ」というのは腐るほど経験して来ている。むしろ、仕事は引き継げるようにしなければならない。属人性をなくすことは職人技でもない限り、減らしていくべきだ。ひとりで仕事を抱えてボトルネックになるのも避けるべきだ。
そして、仕事というのは引き継ぐことで他者視点が加わり、拡張し研ぎ澄まされる可能性があるものだ。また違った世界線を見ることができる。特に創作系の仕事というのは、決まったレールの上にただ乗るだけではなく、さまざまな方向性に走ることができる。
それを担ってくれる人たちが居るというのは、寂しい一面もあるが仕事として、会社としては良いことだと思う。頼れる仲間が居るということなのだから。
そうして、プロジェクト < チーム < サービス(事業) < 会社という関連性で拡大をしていく。
引き継いだ仕事でその引き継いだ人がより仕事の角度を上げて成功を収めるのは、とても喜ばしいことだ。自分ごとのように嬉しく感じる。それは、自分がちょっとでも携わっていたからだろう。全く携わっていなければ感情の動き方としては低いのではないだろうか。
今までしていた仕事がこの1年でもいくつか引き継がれ、引き継ぎをしてきた。そして、今自分がやっている仕事もいつか誰かに引き継ぐ。引き継ぐまでは育てていかなければならない。
そうして、これからも何かしらの爪痕を残していきたい。そして、その爪痕が引き継ぎ先で上書きされて消える頃、また新しい爪痕を残すのだ。
引き継いでくれた仲間たちの成功を信じています。ありがとう。そして、よろしく。
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