記憶の断捨離
昔の年賀状やら手紙やらを整理した。ヨメと同じ収納箇所に手紙なりを置いてある。毎年いただく年賀状も数年分たまっていた。
アホなことに元カノからの手紙まであった。まぁ、別れた後にもらった手紙なので、読まれても害はないのだが、このへんはヨメがヨメであるがゆえになにごともないのだが…。
結婚する前、同性の友人より異性の友人の方が多かった。これは一時期ネットに依存した時期があり、その時のチャット友達が多かった結果だ。(集まりが比率的にも女性の方が多かった。)今でも彼らとの時間はかけがえのないものだと思っているし、あの時あの時間がなければ、オレの人生の彩色は薄かっただろう。
当時のネットは、今と違いTwitterやLINEなどはなく拡散力とは無縁の世界で、匿名性も高かった。ネットに心情をまんま吐き出してもリアルな自分と結び付くことは皆無に近く、"もうひとりの自分"を作り出す環境としてはうってつけだった。
そんな時代であり、自身の年齢の若さもあって、ネットで知り合った人とは、"なにか"を抱えていると薄ら感じつつ、飾る必要性のない自分をさらけ出していた。もちろん、彼らだからそう思えたし、そんなホントの自分を少しでも知っていて受け入れてくれている彼らからニックネームで呼ばれることが嬉しかった。
さて、前置きが長くなったが、そんな彼らからもらった年賀状や手紙を久々に手に取った。読むと「自由だったんだ」と思った。若かったという言葉が適切なのだと思うが、加えて自由だったのだと思う。まだ学生を終えたばかりで、家族も持っていなく、時間の主導権も自分がほぼ持っていた。そんな自由な環境を感じさせる言葉たちだった。
もちろん、2020年の今を卑下している訳ではない。とても充実している。ただ、もうあの自由さは持てないだろうなって思うのだ。…やっぱりただの若さなのかな(笑)オレが歳食っただけなんだろうか。
言語化にするなら、"何でもできる自由"と"何かを探す自由"は違うということなんだろうか。いろいろなことが満たされる今ではもう得ることはできないなぁと感じた。
いつの間にか、"おとな"になってしまったのだなぁと。見方を変えると過去の自分含めて「これは誰だ?」と思うほどに。それだけ変わった。違う世界線に居るような。
断捨離とタイトルを使ったが、手紙は捨てた訳ではない。捨てれないし、忘れられない。(年賀状はかさばるので過去のは捨てたけど。)ただ、もうあの頃の"なにか"を探す自由は持てないなと感じた。記憶の断捨離がいつの間にかされていたのだなぁと実感。
さて、まだまだ断捨離するべきモノがたくさんあるのだよな。しばらく断捨離は続きそうです。